震災五年目 やっぱり考える
川口市柳崎 岩下音楽教室 岩下春江です。
昨日、3月11日は あの震災が起きた日で、
やっぱり私もあの日を思い出しつつ電車に乗っていました。
ここで、あの揺れが来たら、自分はどうなるか、
そんな想像しかできず、
もし、娘が電車に乗っていて、あの揺れが来たら、
生きるために行動できるか、
そんな想像しかできず、
まだまだ、自分は備えが足りないことを
思い知らされる日となりました。
あの日は、どうしていただろうと、
夜のニュースを見ながら家族で話していました。
主人は車に乗って信号待ちをしていたところ、
揺れが来て、それも橋の上、目の前の電柱が今にも倒れそうで、
「俺はここで死ぬ」と思ったそうです。
私は、小学生だった娘が帰ってくる時間だったので、
犬のトイレを済ませようと外に出ようとしていました。
揺れたので、慌てて犬をハウスに入れ、
じっとしていました。
近所の方が、ラジオを外に出して流してくれたのが、
ありがたかったです。
おじいさんは、動揺して、外でふらふらしていたので、
「危ないから玄関にいて下さい!」と叫んでしまいました。
電線の揺れが尋常ではなかったので、
電線が落ちたら、まずいと思いました。
娘は、運よく集団下校で、ひとりではありませんでした。
ヨークマートの横のパチンコ屋の前で揺れて、
建物の前でしゃがんでいたら、
同級生の男の子が、
「そこは危ないからこっちへ来い!」
と、歩道の真ん中に誘導してくれたそうです。
この子は、すごい!
そして、私と無事、合流できて、
帰ってきたのですが、
会って第一声が、
「登校班がなくなっちゃうの!
班長になれないの!」
地震が怖い、ではありませんでした。
彼女にとって、その日の登校班会議で、
自分の登校班の人数が減るので、統合されることが決まり、
次は絶対班長!と喜んでいたのが、
突然の班解散のショックが予想以上に大きかったようです。
帰ってから、班解散の大ショックと揺れの怖さで、
泣きながら、寝てしまいました。
子どもって、ショックが大きくて許容量を超える時は、
寝ることで自己防衛するんだな、と感じました。
その後・・・・・
メールが全く通じず、「手動受信」をすればよかったと後から知ったこと。
オイルタンクが爆発したというデマがメールで流れて、
まんまと私もデマを流してしまったこと。
スーパーの棚が空っぽになったこと。
点検で代車のガソリンを入れなければならなくて、
閉まっているスタンドに
無理やりお願いして入れてもらったこと。
我が家はこの程度で済んだけれど、
この程度でも、気持ちも身体も大変でした。
主人は、震災翌年に石巻に行っています。
「ぜひ、来てくれ」と言っていたのが印象的だったそうです。
その時のことを、書いています。→→
私は翌年、防災施設へ体験に行きました。
娘には、ショックが大きすぎて、失敗でしたが・・・→→
テレビや新聞で、毎日を頑張って
生きて暮らしている人たちの様子を知るにつけ、
まずは、こうした記事をしっかり読もう、
どんな風に頑張っているか、知ろう、
そんな風に思った5年目でした。
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